20. 第3節: 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
まず人は、ある種の善と真理が、上にあるのを知り始めます。外部だけの人は、
善とは何か、真理とは何か、全然知りません。自己愛と世間愛からくるものがすべて善であり、その愛にかなうものが真理だと思います。そのような善はむしろ悪であり、そのような真理はむしろ偽りであることが分かりません。
人が新しい人として孕(はら)まれると、その善は善でないのを知り始めます。一層の光に達すると、主の存在を知り、主こそ善そのもの、真理そのものと知り始めます。主の存在を知る必要性について、主ご自身がヨハネ福音書で言われます。
「あなた方がもし、わたしがありてある者であることを信じないなら、あなた方は自分の罪の中に死ぬであろう」(ヨハネ 8:24)。
したがって、主は善・〈いのち〉そのもの、真理・光そのものです。主によらなければ、善および真理は何一つ存在しません。同じくヨハネは記しています。
「はじめに〈みことば〉があった。〈みことば〉は神のもとにあった。神は〈みことば〉であった。・・・すべては〈みことば〉によって造られた。造られたもので、それによらないで造られたものは一つもなかった。その中に〈いのち〉があった。〈いのち〉は人の光であった。光は暗闇の中に現れた。・・・その方は真理の光であって、この世に来るすべての人を照らされる」(ヨハネ 1:1, 3, 4, 9)。


