737. 「ノアの六百歳の子になって」とは、ノアの試練の最初の状態を示します。ここから第11章のエベルまで、数・年齢・名前の意味は、第5章に出てくる年齢や名前もすべて含めて、事柄以外の何ものでもありません。
ここで「六百歳」とあるのは、最初の試練の状態です。十と六が主調になり、それを2度掛け合わせた数になります。[訳注:6×10×10=600で、10を2度掛け合わせたことになる]。数の大小には何も関係ありません。十にかんしては、第6章第3節のところで述べたように「残果」を指しています。ここでの六は労苦と戦いであることは、〈みことば〉の随所に記してあります。
事情はこうです。これまでノアの試練への準備について述べました。それは真理の理解面と善への意志面での教育を、主からいただくことでした。再生する前の真理と善は残果であって、生産されることも認知されることもありません。
試練を通して再生する場合、本人の残果は、本人の傍にいる天使たちのためです。つまり天使たちは残果の中から、悪霊に対抗して本人を守ることのできる材料をもち出します。それにたいし悪霊は、本人にある偽りを刺激して、攻撃を仕掛けます。
十は残果を、六は戦いを意味し、それで六百という年が出てきます。その数の中には十と六が支配的になっており、これが試練の状態を指しています。
② 戦いを意味する「六」にかんしては、創世記第1章にあり、明らかですが、六日間で再生した人が、天的人間になる前、六日間は絶えざる戦いの期間でした。第七日目に安息があります。六日間の労苦があり、七日目に安静を意味する安息日が来ます。したがって、次のように記されています。
「ヘブルの奴隷は、六年間仕え、七年目は自由になった」(出エジプト 21:2;申命記 15:12、エレミヤ 34:14)。
「六年の間は地を耕して、その収穫を集めるが、七年目には中休みをとる」(出エジプト 23:10-12)。
ブドウ畑についても同じです。
「七年目は地の安息のための安息日であって、エホバの安息日である」(レビ 25:3, 4)。
「六」は、労苦と戦いを意味しますから、そのため偽りにとっては、その分散消滅を意味します。エゼキエル書には、次のようにあります。
「見よ、北に通じる上門の道から、六人の男たちがやってくる。それぞれは、その手の中に滅ぼすための武器がある」(エゼキエル 9:2)。
ゴグにたいするエゼキエルの言葉です。
「わたしは、あなたを帰らせ、あなたを六つに分割し、あなたを北の果てから上らせる」(エゼキエル 39:2)。
「六」「六分割する」は、分散消滅を指します。「北」とは偽りです。「ゴグ」とは、外面から教義を理解しようとする人たちで、その外面は、内面的な信心を崩壊させてしまいます。ヨブ記を見ると次のようにあります。
「かれは、六つの苦悩の中からあなたを解放し、七つ目の中で、あなたに触れる禍は存在しない」(ヨブ 5:19)。
これは試練の戦いを示します。
③ 〈みことば〉の他の箇所で、労苦・戦い・偽りの分散消滅ではなく、信仰の聖性を意味する「六」が出てくることがあります。これは十二と関係があり、十二は信仰および信仰に関連するものを全部一括したものを指します。「三」は、聖なるものを意味し、六の数からくる純然たる派生数でもあります。例えば、
エゼキエル書第40章第5節にあるように、ある男が物差しで計ると、イスラエルの聖都は「六キュビット」ありました。そこからの派生では他にもあります。それは信仰の聖なるものが試練の戦いの中にあることです。同時に、労苦と戦いの六日間は、聖なる七日目を期待しているという意味があります。


