893. 第13節: 六百一歳の一月一日になって、地の上の水は涸れた。ノアが箱舟のおおいを取り除いて見ると、土のおもては、乾いていた。
「六百一歳」とは、期間の終わりを示します。「一月一日」とは、最初の終了時機です。「地の上の水は涸れた」とは、偽りが見えなくなったのを示します。「ノアが箱舟のおおいを取り除いて見た」とは、偽りが取り除かれると同時に、信仰の真理からくる光を認め、それにたいする信仰をもつことを意味します。「見ると、 土のおもては、乾いていた」とは、再生を示します。
② 「六百一歳になって」とは、最終の期限を示します。それは前章第6節で説明しましたし、737節で数字の六百が始まりを意味し、試練の始まりについて説明してありますから明らかです。その数は、終わりも意味します。全一年が過ぎ、一年の終わりにあたって起こることでもあるからです。それで「一月一日」と付け加えています。これは第一回目の期限です。
〈みことば〉では、ある全体の期間を、日・週・月・年、それに百年・千年をもって表します。たとえば創世記第1章にある「日」は、最古代教会のメンバーの再生における一期間を示しています。日や年の内的意味は、時間以外のなにものでもありません。そして時間とは状態を示します。そのため、〈みことば〉では時間と状態を表すものとして、年が使われています。イザヤ書には、次のようにあります。
「エホバに喜ばれる年を告げ知らせ、われらの神に注油の日を宣べ伝え、嘆き悲しむ者らを慰めるために」(イザヤ 61:2)。
これは主の到来について言っています。同じく、
「わが心の中に報復の日がやって来た。またわが贖われた者らの年が来た」(イザヤ 63:4)。
ここでの「日」と「年」は、時間と状態を示します。ハバクク書には、次のようにあります。
「エホバは、あなたの業を、年々の真中で生かされますように。また年々の真中で、それを知らされますように」(ハバクク 3:2)。
「年々」とは、時間であり状態です。ダビデの書には、次のようにあります。
「あなたは神ご自身です。あなたの年々は、終わることがありません」(詩篇 102:27)。
「年々」とは、種々の時間を示します。神には時間がありません。ここでも同様、「年」は洪水の年でも、年を表しているのでなく、特定の年々によっては決められない時間と、その状態を示します。年々については、前482, 487, 488, 493節を参照してください。


